[軌道高度四〇〇km:ステラ]
地表から四〇〇kmに位置する宇宙ステーション<ステラ>には二十三名。十八名の科学者と五名の軍人たちが滞在し、日々研究を行っている。
ウロボロス計画。ゆくゆくは地上から静止軌道まで延びる軌道塔を建設し、人類が直面するエネルギー問題、食料問題、遺伝子問題、etc。を解決、人類の発展、いや再生を目指したプロジェクトだ。過去、何年も訴えられてきたエネルギーの枯渇、人類の発展という名目で行われてきた、世界を荒廃させる行為の代償を支払う期限が目の前に迫り、初めて人類は手を取り合おうとしていた。
我々科学チームは着々と成果を挙げ、地上側では七つの発着拠点建設が開始されている。だが、これらの成果を元に支払い期限を延ばせたところで、これまでの借金を完済するのは到底無理な話だろう。利息の支払いが良いところだ。それでも、地上では日々もたらされる成果に一喜一憂し、我々のことが話題に上がるらしい。
ここ<ステラ>は絶対零度の宇宙空間に閉ざされ、変わらぬ毎日が繰り返されている。平穏と言えば平穏だが、満ち足りているかと言われれば、正直地上が恋しい。ここ数日で変わったことと言えば、小規模ではあるが太陽フレアの発生回数が増えていることくらいだ。活発化している太陽フレアは気にはなるが大きさは十万km程度であり、通常の活動範囲内だ。
もっとも、熱核兵器の数十万倍から一億倍の威力を持つこれらが放つ衝撃波と磁気エネルギーは、研究者にとって興味深いデータの宝庫ではあるが、同時に宇宙で生活する者全てに恐怖をもたらす。壁を隔てた向こうに深淵を覗き込む者にとっては、小さな故障や振動ですら死を意識させる。だがこの日観測された巨大な爆発は、決定的な変化を人類にもたらすことになる。
激しい揺れで目覚める。ぼんやりとした視界には赤い光が瞬き、規則正しくリズムを刻む不快な音が鼓膜を叩く。
状況は分からないが、何かまずいことが起きたようだ。
「何……だ!?」
「ど……うし……た!! ……が起きた!?」
緊急時に作動する自動警報と管制室と個々との強制通話が開始されている。だが、プライマルシステムとバックアップシステム、さらにはそれらが破損した際を想定したセーフティシステムがあるにも関わらず、この状態ということは機器の故障や一時的な物ではなく決定的な破損がステーションの何処か、または全体で起きていることを示している。
「クルーは……員、緊……時……対応……マ……ルに従って……」
管制室に向かって走る。緊急時の対応マニュアルは訓練時から徹底的に叩き込まれる。宇宙での鉄則。どう抗おうと真空の宇宙で人は無力だ。出来ることはダメージを最小限度に抑えること。それはつまり、”常に最大人数が生き残る選択を行うこと”。こうして移動している間にも、何度か大きな衝撃がステーションを襲っている。
管制室の扉は開け放たれたままとなっていた。良い判断だ。この状況で一度扉を閉めてしまえば、開かなくなる可能性は高い。
「何が起きた?」
彼らをこの時ほど頼もしく、チームであることを名誉に思った瞬間は無い。管制室に集まったクルーは誰一人パニックに陥らず、既に状況の把握と対処を開始していた。
「観測史上類を見ないほど巨大な太陽フレアです」
「シールドが破損し、ステーションの電気網を破壊。第四区画から第六区画、第九区画から第十八区画にかけて完全に停止。幾つかの区画は破壊されている可能性がある」
「各人の状況は?」
今管制室にいるのは自分を含めて科学者十三名と軍人四名、合わせて十七名。
「機器がいかれてる。ここから確認をするためには各区域で修理が必要だ」
「電気網の復旧は?」
「セーフティシステムから一部のプライマル、バックアップシステムを接続。最低限の機能確保及び、十二%の電力を確保しました」
「流石だ」
「ですが、悪い知らせが」
「これ以上悪い知らせがあるのか?」
「見てください」
「ニュートリノ? いや、それもあるがなんだこれは? 未知の――」
「一時間前、月の崩壊と共に放出された素粒子です」
「月の崩壊だと?」
望遠鏡に映る月は三分の一ほどが崩壊し、破片が惑星の重力に引かれ向かってきている。さっきからの衝撃は飛来した破片がステーションに衝突したからだろう。破片と呼ぶにはあまりにも大きい月の一部はゆっくりと移動を開始している。いずれは地上に落ちる。そして、これは未曽有の事態をもたらすことになるだろう。あのサイズであれば地殻津波を起こし、引き裂かれた地殻は宇宙へと巻き上がり、隕石として落下する。そして灼熱の蒸気が世界を覆い、世界は滅びる。試作品ではあるが、軌道塔建設のため発着地点に配備された重力装置が世界を救うことになるかも知れない。落下速度を下げられるはずだ。さらに確率を上げるならば………。
「<ヘリオス>の状態は?」
「電気網の接続を見る限りは、無事です」
「よし。全員宇宙服を着用の後、脱出シーケンスに従い<ヘリオス>にて速やかに退去」
瞬間、疑問を投げかけようとしたクルーもいたが、全員が素早く装備ロックへと移動を開始する。”常に最大人数が生き残る選択を行うこと”まだ生存者はいるかも知れないが、連絡を取る手段が無い状況で時間を費やせば、行動の選択肢は失われていく。このままであれば、ステーションに留まった方が短い時間かも知れないが生存できる時間は長いだろう。だが今は少しでも”生き残れる”可能性を信じ、行動する。
ステーションと地上を行き来する宇宙船<ヘリオス>は地上との連絡、物資の搬送に使われる。スペースデブリ、隕石の飛来など不測の事態に備え、常にステーションと地上との間に停泊するため、無傷とは言わないが地上へ戻るには十分な状態であることが予測される。地上からの物資搬送が終わったばかりだったことは運がいい。こちらからの搬送中であれば、もう一つの脱出設備に頼らざるを得ない所だった。それは今の状況では避けるべきだ。ステーションに設置された四人乗りの脱出用ポッドは大気圏への突入は可能だが、着地地点の完全な制御は難しい。地上側での支援が無ければ、確実とは言えない。宇宙であれば死は一瞬だ。過酷な死とどちらかを選ぶしかないなら、どんな強者であろうと一瞬の死を選ぶだろう。
宇宙服を着て相互に確認を行う。エアロックに十六名が移動をしたの見届け、扉を閉じる。
「!?」
エアロックの小さな窓から覗く彼らの表情は一様に驚いていたが、何人かが私の意図に気づいたのだろう。敬礼をする者、頷く者、次第に数を減らし宇宙船へ乗り込んでいく。
「博士!!」
イリーナ。教え子であり優秀な生化学者。彼女の特異な容姿と美貌は周囲の目を奪わずにはおかない。
先天性白皮症。メラニンの合成に関わる遺伝情報が欠落または欠損により、メラニンが欠乏する遺伝子疾患。最初は誰しも彼女の容姿にとらわれる。だが、彼女を知れば驚くべきは容姿ではなく、その豊かな才能だと気づかされる。薬理学、生理学、微生物学。ここにいる間にも多くの知識を習得し、集まった天才たちの中で多くの成果を上げ続けている。
「計算してみたが、<ステラ>にある核弾頭を使えば落下してくるあの塊を全ては無理だが、砕くことは可能だ。そうすれば、地上への影響は最小限に留められる可能性がある。君のことだ、気づいていただろう?」
「だからと言って一人で残るなんて! 私も残ります!」
「<ヘリオス>が不測の事態に陥った時に君が必要になる。それに私も死ぬ気は無いしね」
「でも!」
「行ってくれ。地上で拾ってくれる人がいてくれれば私も心強い」
「わたしは、わたしは――」
「地上で会おう」
扉を叩く音を背に、管制室へ移動する。教え子との別れは辛いが、今は時間を無駄に出来ない。通路の窓から<ヘリオス>のブースターの輝きがステーションを照らすのが見える。これで残りは<ステラ>を予測軌道へ移動し、タイミングを合わせて核弾頭を起爆させるだけだ。
時間が無い。管制室から移動シーケンスを立ち上げる。イオン・エンジンへの供給を開始、キセノン推進剤が注入され、プラズマ状イオンが放出される。接触地点を設定。通常軌道から外れ、地上との距離が出来るだけ遠くなるポイントを設定する。今の距離で核を爆発させれば、隕石となった月の影響だけでなく電磁パルスの影響が地上に残る可能性が高い。最悪の事態は免れることは出来ないが、減らすことが出来るなら一つでも減らすにこしたことはない。
最悪時に備え、復旧させた生命維持装置を始めとする電力の供給を止め、電力プールへ数%づつ確保する。さらに予測軌道到達までの間に、二つのことを行う必要がある。脱出ポッドの確認と起爆装置の有線化。幾つかのポッドは機能していないが、ポッドの機能、射出機構、射出口、全て正常なポッドを見つける。
「よし」
ほっとし、笑っている自分に気づく。可笑しなものだ。こんな時でも希望を感じれば人は笑えるのだ。あらためて気を引き締め、ポイント到達時間を計算し、タイマーを設定する。管制室から格納庫へと走る。目の前には各国の秘密裡の協定のうちに設置、配備された核兵器がある。<ステラ>を何らかの意図で攻撃、または独占しようとする存在に対し用意され、それにともない五名の軍人が常駐することになった。彼等の任務は表向きは我々の安全と<ヘリオス>の操縦だったが、大国のお互いの監視員であることは誰の目にも明らかだったし、核はここを破壊するための物だ。
愚かさの極み。その愚かさが人類を救う助けになるかも知れないとは皮肉なものだ。
起爆装置へ予め電力プールからの電力供給を行っておく。映画のように無線がダメだから簡単に直接起爆出来れば良いがそれほど簡単ではない。脱出ポッドまでケーブルを伸ばしていく。スイッチは脱出ポッドに備えつけられたアームと接続する。
「さて、準備は整ったが……」
準備が終わった先から宇宙服へ酸素の補充を無意識に行っていることに気づき、自分の習性に苦笑する。訓練のたまものだ。
射出の際にケーブルが引きちぎられないよう、脱出機構の出力を調整し、ポッドを宇宙へ滑り出させる。既に肉眼で見える月の破片は巨大だ。巨大すぎて目視では距離を誤る。ポッドで徐々に距離をとりながら、計測画面から目を離さない。緊張で過敏となった神経が時間を引き延ばしていく。実際には長い時間では無かったはずだ。
宇宙空間に刹那の閃光が輝く。あるはずは無いが光が体を通り抜けてゆくのを感じる。光が意識として満ちていくかのような感覚。
「カノウセイノソンザイ 。ソンザイノカノウセイ」
光が言葉にほどかれ、信号のように糸のように神経を駆け巡り、意識へ到達する。
「何だ? いや誰だ?」
肉体を通してしか感じられない世界が今、体だけでなく精神も含め自分の全てで感じられる。幸福感に満たされるのが分かる。死の間際に人は人生を振り返る、あるいは天国の光を見るというが、私は既に死んでいるのだろうか? 生命を構成する不可視の糸が溶け出し、世界を構成する不可視の糸で織られた模様が見える。自分が何者で世界を構成する原子の一つ一つまで感じとれる。
見せられているのか、見ているのか。
「そうか、それが生命の」
全ての糸が自分の糸と寄り合わさり、光が見てきた時間と空間が精神と肉体の中へ溶けていく。
「理解した」と思った瞬間だった。激しい衝撃が体を襲い、遮光窓を通してさえ輝きを失わない光に目が眩んだ。吹き飛んだ座席から体の固定具が外れ、ポッド内を跳ねまわる。覚えているのは、光と衝撃、飛来する<ステラ>と月の破片。破壊されるポッドの姿だった。
――――つづく